古代風水研究会が誕生するまでの過程!!

中国出張

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1989年(天安門事件の年)の12月、初めての中国出張(生まれて初めての海外でもあります)で、運良く良質の原料調達に成功(7種類の新原料の発見)する事が出来ましたが、正にビギナーズラックと言えるでしょう。

 

 この出張の後半に広東省で、香港人のおっさんと出会い、これが私の古代風水研究の原点となるのですが、そのくだりはまた別の機会に致します。

 

 これに気を良くした件の事業部長がらみの虐めや嫌がらせは無くなり、中国原料調査担当を命じられたのです。やっと、春が来たと思ったのも束の間で、同僚や先輩達からの攻撃が激しくなったと言えます。男の嫉妬と言うのは手が込んでいて厄介なものなのです。

 

 数年間は中国出張と言う楽しみもあり、何とか踏ん張っておりましたが、バブルの崩壊に伴い、経費削減を名目に原料調査は中断と相成り、クレームの多い業界の営業担当を兼務させられ、憐れ白楽雲青年は更なる地獄の中に叩き込まれる事になります。

 

 1994年の秋、「もう嫌だ」、私の精神は崩壊寸前となり、会社を辞める決心をしました。退職届を書き、内ポケットに忍ばせ、叩き付けるタイミングを測っていると、営業部長に呼ばれ個室に連れ込まれたのです。

 

 「ここで叩き付けてやる」と内ポケットに右手を滑り込ませた瞬間、「お前中国に行けるか?、出張じゃなく駐在だ」と言われたのです。すかさず手を引っ込め、私は原料調査の為中国駐在する事になったのです。

 

 「こうなったら地の果てでもどこでも行ってやる」と言う心境でしたが、地の果てどころか天国か極楽と言える人生最良の瞬間を迎え様とは、人の人生とは解らないものです。また、ここから私は風水師の道へと転げ落ちて行く事になるとも知らず、我が人生最良の日々を謳歌する事になります。

 

 これ以降、約8年に亘り、中国に滞在する事になり、私は世紀末を中国で過ごしたのです。「人間万事塞翁が馬」、何が良いのか悪いのか、解らないと言うのが私の心境です。私は元来、平凡を好む性格なのですが、意に反して必ず嵐に巻き込まれ、翻弄されて来ました。

 

 今ではそれが「天命」で在ったのだろうと思っています。何があっても成る様になるのです。大事なのは、与えられた状況の中で自分なりに闘い、もがいていれば結果が伴うのだと思っています。

 

 出来る事ならば、もっとカッコイイ人生を送りたかったのですが、泥臭い人生もまた良いものですよ(負け惜しみだろ)。

 

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厦門(アモイ)駐在

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私の中国駐在先は福建省の厦門(アモイ)と言う都市です。改革開放政策によって、1979年に設置された経済特区の1つです。他の都市と比べて開放的な雰囲気の町でした。

 

 私はホテル最上階のスウィートルームを貸し切り、オフィース兼宿舎として至福の時を過ごす事になりました(正直に言えよ)。実は・・・、ホテルと言っても三流ホテルです。壁紙は所々めくれており、皆さんが想像する様な大そうなものではありません。

 

 それでも、30そこそこで一国一城の主に収まったのですから(従業員はお前だけな)、私がどれだけ舞い上がっていたか。誰からも文句は言われませんし、自分のペースで仕事が出来るのです。

 

 部屋の大きな窓から鼓浪嶼島(昔、共同疎開が置かれていました)を眺める事が出来ます。今はもっと洗練された街になっているでしょうね。鼓浪嶼島の手前には鄭成功(国姓爺)の像が小さく見えます。夕方になると夕日に染まった幻想的な風景を堪能できました(朝日ではないのがちょっと不満ですが)。

 

 ここでの仕事は、厦門大学日本語学科の学生を通訳として雇い(アルバイト)、隔週で長距離出張(甘粛省蘭州が最遠)、翌週に近距離出張(厦門周辺)、土日は報告書を作成と言う段取りで結構ハードでしたが、本社での辛い経験からしたら充実した楽しいものでした。

 

 ここで私はあるきっかけで客家の長老と親しくなり、彼らが2000年以上に亘り守って来た「古代風水」に出会う事になります。そして、「楽雲気法 」の正体を知る事になったのです。

 

 「楽雲気法」は客家に伝わる「古代風水」の一部で、主に健康に関わる部分を抜粋したもので、客家ならば皆知っている事なのだそうです。「楽雲気法」の顛末を知った長老に気に入られ、一族の秀才(厦門大学日本語学科卒業)を紹介されたのも幸運と言えます。

 

 私は彼と彼の友人(厦門大学日本語学科卒業)の助けを得る事が出来、厦門での仕事の基盤を構築すると共に、遊び相手を得る事が出来、ほぼ毎週末カラオケや飲食を楽しんだのです(当然お互い接待費の出し合いです)。

 

 客家の秀才の林さんとその友人の王さんは二人とも日本語が堪能で、商談と称してホテルに遊びに来るのですが、その後に夜の酒場へと繰り出すのです。

 

 しかし、この至福の時は長く続かず、1年余りで終了と成ります。広東省に合弁で建設した工場が上手く行かず、一時応援に行くように命じられたのです。

 

 その工場は、私が初めての中国出張で出遭った香港人のおっさんの会社と商社と私の居た会社の合弁で、原料の製造販売を目的にしたものです。

 

 ここに派遣された連中は、その風土に馴染めず、ギブアップする者が続出し、香港人や現地スタッフとの折り合いも悪く、険悪な状態になっていたのでした。超ベテランの御爺ちゃん(私は仲良しで好きな大先輩でした)が、孤軍奮闘していると聞き、その要請を断る事が出来なかったのです。

 

 ホテルをチェックアウトし、私物は通訳に預け、広東省へと向かったのですが、まさか7年もの長期に亘り駐在する事になるとは思ってもいなかったのです。

 

 またてしても、地獄に突き落とされる事になるのですが、同時に私の運命を決定づける事になるのでした。


広東省新会市

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 厦門(アモイ)から広東省広州市に飛んだ私を待っていたのは、工場の運転手ただ一人(ちょっと寂しいんじゃない)。私の名前を書いたプラカードを持って出迎えてくれました。

 

 私がこれから赴任する工場は、広東省新会市(広州市の南約90q)にあり、海に面した漁村のはずれで、全く何もないところです。夜になると、鮮やかな「天の川」を見る事が出来ました。

 

 工場に着くと私は大先輩の御爺ちゃん(○○さん)のいる工場に直行し、「○○さぁ〜ん」「おお来たか」「今日から応援に来ましたのでよろしくお願いします」(これから一緒にいるんだから挨拶は大事だからね)。

 

 「何言っとんだ、俺明日帰るからよ」「はぁ〜何の話」「日本に帰らしてくれと言ったら、お前が来たら何時帰っても良いと言うからよ、明日帰る事にした」「そんなのリアルに聞いてねえ〜よぉ」。

 

 いい加減なものです。本社の幹部どもは行き当たりばったりの二枚舌野郎ばかりなのです。こうして、工場の事は何も知らない状態で、翌日一人置き去りにされたのです。 

 

 しかし、流石御爺ちゃん。セコイ馬鹿幹部どもが用意した中古(30年選手)機械はまともに動かず、あの手この手で生産体制を整えた上に、現場通訳に工場イロハを叩きこんでくれていました。さぞかし苦労した事でしょう。

 

 私は、現場通訳に工場を任せ、溜まった製品の試験とデスクワークをこなす毎日でしたが、三日後の昼、食堂で通訳の解雇を通告されたのです。「何時辞めるのか」と聞くと「たった今、30分以内に出て行ってもらう」と。

 

 私は怒りに震え「これがお前らのやり方かぁ〜」と心で叫ぶと、席を立って、椅子を蹴り飛ばし「トォエブチ―(すみません)、用事を思い出したので外出します、工場はたった今稼働中止とします、私がいない間にもし勝手に生産したならば無条件に引取り拒否します、では・・・」と事務方の通訳に言うと、現場通訳を連れてトンズラしました。

 

 彼が珠海から船で深セン(土ヘンに川)に行くと言うので、珠海に泊まり、船の時間まで工場イロハを叩きこんでもらいました。どうせ私を困らせようと言う意図である事は明白ですので、出来ませんとは口が裂けても言えません。

 

 翌日の午後、工場に戻ると総経理(中国側社長)が、待ちかまえており、「勝手に出て行ってもらっては困る」と言うので「ならば勝手に通訳を解雇して貰っても困る、私はちゃんと外出すると言いましたよ」。

 

 「明日から工場を動かせるか」(そら来た)、当然明日から私が工場を動かすが、試験やデスクワークが出来ないので、早急に替わりの通訳を雇い、私が指名する作業員を私の手元につける事を要請。

 

 また、@今回の件は中国側の非協力的行為として、日本に報告させて貰った事、しかし、日本側の前任者達(御爺ちゃんは彼らに信頼されていたので除く)にも問題があっただろうと、正式なクレームはしない様に要請した事を伝えました(馬鹿幹部どもがクレームする訳が無いのですが)。

 

 更に、A私は○○(御爺ちゃん)に代わり、日本側の全権を持って赴任しているのだから、今後、工場の生産に関わる事は私に事前に報告する様に要請。再度同じ事が起ったら、即刻帰国すると申し入れました。

 

 これら@Aは全部嘘です。通訳との逃避行(女性でないのが残念)中に、四面楚歌の中で(1対200)如何立ち回るかを考えた末の大法螺です。更に私には腹案が有るのです(鳩ちゃんか)。それは老板(董事長いわゆる会長)への直談判。これは確実に効くでしょう(秘策があるのです)。

 

 すると、総経理は理解を示してくれましたが、老板の意向には逆らえないと正直に言ってくれたのです。また、明日、老板が来るが、貴方は今回の件について文句を言われると思うから我慢してくれと言うのです。

 

 ならば丁度都合が良いから、私からも言わせて貰いましょうと言うと「何を言うんだ」と言うので、「それは老板が来てからの話です」とお茶を濁しました。

 

 最後に、私を心配しての事だろうが、私の部屋を家探しするのもやめて下さいと忠告(手掛かりを探そうとしたのでしょう)したところ、昨日河で水死体が上がったから(暗に言う事聞かないとそうなるぞの意)、独りで出歩くのは危険だと言うのです。

 

 私は、今の険悪な状態ならば何処に居ても私は独りなのだから危険なのでは?と切り返し、ここが安全な場所に成る様にお互い努力しましょうとドキドキしながら言ってやりました。

 

 この総経理は、和やかな話し方なのですが、眼が爬虫類の眼なのです。こういう人は怒ると冷徹なところがあり、私はオシッコを漏らしそうだったのですよ。彼は、共産党の元幹部で、地元政府・地元警察・地元マフィアを牛耳る有力者なのです。

 

 でも、後で私と総経理は「ターカ(兄貴)」「ティティ(弟)」と呼び合う仲になるとは、解らないものです。

 

 正直言って、私も必死だったのです。「良くあんな事言えたなぁ」と怖くなります。人間窮地に追いやられると馬鹿力が出るのでしょう。また、営業部で虐めや嫌がらせに耐えていた事が糧になったのかも知れません(「私と楽雲気法 」参照)。

 

 こうして、地獄の様な生活が幕を開け、この日中戦争は中国側の圧倒的優位の内に開戦の口火を切ったのです。


宣戦布告

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老板(董事長いわゆる会長)との直談判の日、老板と総経理(社長)が食事の前30分位二人で話をすると聞きつけた私は、早めに仕事をかたずけ、シャワーで身を清め、勝負服に身を包み、事務所4階(宿舎)のテラスから食堂を監視。

 

 老板と総経理が食堂に入るなり駆け出して、何食わぬ顔で食堂に乗り込みました。こういう時は奇襲しかありません。「○先生、ニイ(人ベンに尓)好、好久不見(○さん、こんにちは、お久しぶりです)」と言って有無を言わさず握手。

 

 老板は怪訝そうに総経理に聞いています。総経理が私を紹介するや「ニイ好ニイ好」と、握手を返してきましたが、「アンタ覚えてね〜なぁ」。ここで、老板との経緯を話しましょう。

 

 この時から遡る事約6年半(1989年12月)、私の初めての中国出張の後半、広東省を調査をしている時、案内役の国営企業担当者から「貴方を案内したいと言う香港人がいる」と紹介されたのが○先生(老板)です。

 

 初めて会った印象は、「小汚い小さいオッサン」(詳細はまたの機会に)です。しかしこのオッサン気が利いていてフットワークがすこぶる良く、非常に頼りになったのです。

 

 最後に Private Pier(オッサン専用埠頭)を見せてやると連れて来られたのがこの場所。当時工場は無く、原料が置かれているだけでした。「ここは風水に適した地で、何時か工場を建てるつもりだ」と言っていたのを覚えています。

 

 この頃中国進出ブームで、原料を現地調達したいとの顧客の要望もあり、このオッサンとの合弁が成立したのです。私はそのプロジェクトの蚊帳の外でしたが、原料調査が基となっており、言わば私はオッサンの恩人の筈なのです。

 

 しかし、「アンタ覚えてね〜なぁ」と言う言葉を飲み込み、「6年半前の原料調査では御世話になりました、懐かしいですね」。と片言ではありますが中国語で話しかけると、二人ともびっくりした様で、顔を見合わせています。

 

 ポーツマス会議での小村寿太郎がロシア全権ウィッテに使った「フランス語分かりません作戦」をまねて(たまたまだろ)、ここに来てから中国語を全く話していません(運転手以外には)。だって通訳いるから必要なかったのです。

 

 そうこうしていると、通訳が慌てて入って来ました(やっぱり監視していたなぁ、計算通り)。「丁度いいところに来てくれたね」と通訳に言い、後は任せました。

 

 老板が「この工場はどうだ」と聞くので、「ここは風水的に非常に良い場所であり、建物の構造と配置も従業員の活力を引き出すには完璧です、さぞかし名のある風水師の設計ですね、ただ一つの欠点を除いては」と言ってやりました。

 

 老板は鳩に豆鉄砲的表情で「何故そんな事が解る」と言うので厦門(アモイ)駐在での客家との交流と当家と楽雲気法の関わりを説明すると納得してくれました。また、欠点についての対策を私の耳元で囁いたのです(ゾゾとしました)。私は耳が弱いのよん。

 

 老板が間違いなく客家である事を確信した瞬間であり、老板も私を信用してくれた様です。ここからが本番です。ここに来てからの経緯と私の要望を捲し立て、協力を要請。通訳がちゃんと通訳してくれない個所を訂正しながら(やっぱりお前は香港人工場長ビルの犬だな)で、骨が折れました。

 

 最後に、厦門駐在員の私を事務所畳んで、この工場に投入した日本側の真意を強調し(嘘をついてしまった)、「利害関係を考えるのは工場が軌道に乗ってからで良い事なので、それまでは私の言う通りにしてくれ」と要請。

 

 そこへ、香港人スタッフ(ビルも含めた)と中国人の幹部スタッフがぞろぞろとやって来ました。私が老板と話しているのを皆一様に怪訝そうに見ています。案の定、ビルと通訳は目配せしています。「もう遅いぜ」(白楽雲心の声)。

 

 老板が「ビルを首にしようと思うがどうだ(通訳が言いにくそうに)」と言うと、太陽の光を受け生き生きとした向日葵の花が、急に萎れて頭を垂れた様に、ビルはうな垂れています。

 

 私は急に憐れに思ってしまい「ビルは中国側に立って賢明なのでしょう。経験不足の若いスタッフを寄越した日本側にも責任があり、今後は上手く行くでしょう、いや、上手くやりましょう」と言って「ビル、これからも頼むぜ」と心にもない事を言う白楽雲でした(また一つ嘘をついてしまった)。

 

 人間とは不思議なものですね。翌日、今まで工場に顔を出した事のないビルが、作業服に身を包み作業員と一緒に仕事をしているではないか。「何してんの」と言うとニコニコしながら「運動不足だから勉強を兼ねてトレーニングだ」と。

 

 これ以降、ビルとは次第に仲良くなり、大親友と成ったのです。初戦は私の大勝利。ビルの管轄は私に靡きだしましたが、最大の敵は総務担当の老板(会長)秘書のリックとNo.3の白豚(董事いわゆる副社長)。

 

 まだまだ敵は多数です。リックと白豚傘下の中国人従業員は、合わせて約150人。また、江沢民以降、中国で反日感情を促す番組などで日本人を嫌悪する者は多いのです。

 

 古の日本軍の様に真珠湾での華々しい戦果の後の連戦連敗だけは避けなければなりません。まだまだ、気苦労が多そうです。以降の件は別のテーマで紹介するとして、徐々に良い方向に向かい、1年後には軌道に乗せる事が出来たのですが、結局7年もの間、私はここに留まる事になります。


収束

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老板(董事長いわゆる会長)との直談判に成功し、最大の敵ビルを撃破し、初戦に勝利した後は、拍子抜けする程簡単に、戦線は収束して行きました。

 

 先ず総経理(董事いわゆる社長)が、古いアルバムを持って来て、「これお前だろ、これ俺」と指さす写真には、私と総経理が並んで笑っている写真です。「アンタ体形変わり過ぎ」と私、「お前もなと」と総経理。

 

 「気が付かず失礼しました」と言うと、私の手を取り「私達は老朋友(古い友達だ」とニコニコと上機嫌です。その顔からは爬虫類の眼は無くなり、優しいお兄さんに替わっています。

 

 これ以降、政府の役人・警察幹部・マフィアのボス達との会合に呼ばれ、知らない内に私は、何故か彼らの好朋友(仲良)と呼ばれる様に。飲み屋で遭うと「我的好朋友」と仲間に紹介されるのですが(アンタ誰?)、いちいち覚えていません。

 

 副総経理の白豚(董事いわゆる副社長)傘下のフラン(香港人スタッフ)がビルと仲が良い事もあり、ビルと伴に夜の飲み仲間と成り、私は毎晩深酒する破目に陥ったのです(まぁ、酒は嫌いではないですが)。

 

 老板秘書のリックの傘下のケビン(香港人スタッフ)は、Gショック大好き野郎で、赴任当初、私の手を掴み、「これGショックか」と聞き、「No Pro Trek」と言うと「ふん」てな態度だったのに、今では彼の手には「 Pro Trek 」が。「これ、温度・高度・方位が解るから最高だ」と、そして、「一様一様、我們是好朋友(同じ同じ、私達は仲良し)」て、ガキかお前は?

 

 白豚(ガツガツと飯を喰い、香港人には珍しく顔が白いので)は何時も偉そうにしていたのですが、、老板と総経理が私と仲良くなると、いつもニコニコ○○先生と挨拶して来ます。典型的なイエスマン。悪い人間ではなさそうなので以降「子豚ちゃん」に昇格です。

 

 残ったのは老板秘書のリック、こいつは何時もクールで笑った事が無く、いわゆるエリート風を吹かせたいい男。イメージとしては若き日のジョン・ローン。事務所の女性陣は皆うっとり(でも既婚者だから残念〜)。

 

 約一年後、リックの奥さんがカナダに留学したと言う話を聞いたのですが、暫くすると、夜の飲み会に顔を出す様になり、終いにはカラオケ・深酒・悪態をつく様に(一体如何したの、以前のお前はそんなこと一度もなかっただろ)。

 

 話を聞くと奥さんと離婚したとの事。彼は、見た目と違い、愛妻家で、ただの堅物だったのです。一人の女性が一人の男を全く別人にしてしまったのです。私は「昔の俺と、一様一様、我們是好朋友」(何処が同じなんだよ)と言って、以降新しい飲み仲間に引き込みました。

 

 結局、私の大勝利。旧日本軍の様にならなくでやれやれです。しかし、私はほとんど何もする事がなくなってしまいました。報告書を日本へFAXする事と、香港人や中国人に指示するだけ。試験も、中国人がやってくれます。何もないところで、何もする事がない、なんて退屈なんだ。

 

 そこで、工場のPCを使ってお遊びを始めたのですが、中国語の為使いづらい。早速、本社へ「PC買って」とおねだりするも脚下(ばれたか)。理由が××(この工場に私より前に赴任するも、現地スタッフとの反りが悪く、解任された先輩)が「どうせ遊びに使うだけ」と言っているからとの事。

 

 「オイオイ」、日中戦争の後は日日戦争か。私は「中国側がPCくらい買って貰ったらどうだ、FAXなんて時代遅れだろと言うので御願いしているのです(嘘だ今俺は嘘をついている)、ダメならば自分で買います、報告書はメールで送りますのでよろしく」。

 

 その後、「老板が日本が買ってくれないなら俺が買ってやると言って買ってくれましたがどうしましょう」(また嘘をついてしまった)。「何〜、そんな恥ずかしい事出来るか、すぐに日本に請求させろ」だって。「日日戦争は子供の手を捻るほど易し」です。

 

 私はこのPCを使い、風水の歴史、客家の歴史、中国の歴史、日本の歴史、東アジアの歴史、日本・中国の古刹などの研究に没頭しました。これが、私を古代風水と言う「新しい世界」へと引き込む事になったのです.。。


年貢の納め時

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工場赴任から約二ケ月。すっかり総経理と仲良くなった私ですが、総経理の叔母(父親の末娘)で食堂の責任者のおばさんも、私の好きなものを用意してくれたり、何かと世話を焼いてくれる様になりました。

 

 ある日おばさんがニコニコしながら「○○先生は結婚まだですね」「そうだよ」「いい子を紹介してあげます」「え〜(別に頼んでないし)」。何処の国にも世話焼きな方はいるのですね(有難迷惑なんですが)。

 

 おばさんが「阿花(中国では若い女性の名前の一字に阿又は亜を付けて呼びます、花ちゃん的な感じです)〜」と厨房に声をかけると、一人の女の子が入って来て「何ですか」。おばさんは「この子如何だ」、如何だと言われても・・・

 

 花ちゃんは会長秘書のリックの管轄の総務部資材係で、食材などの調達を担当している子です。試験用の鉱泉水や私個人用のビールを届けてくれていたので顔見知りです。

 

 4階の宿舎までビール1ケース運ぶのは大変です。言ってくれれば取りに行くと言っても必ず本人が届けてくれていました。悪い子ではないし、愛想も良く、女性従業員の中で一番接点があったと言えます。

 

 しかし、私は結婚する気など全くなかったのですが、本人を前にして「嫌だ」とも言えず「いくつですか」(中国で女性に年を聞いても怒りません)と聞くと「24歳です」。中国では数え年を使うので、満23歳です。

 

 私は33歳でしたので、10歳も若い事になります。「こんな年寄り嫌だよね、おばさんこの子に悪いよ、それに結婚する気が全くないから、ごめんなさい」。「そうかもっと年上がいいのか」て、冗談はよし子さんです(全く・・・)。

 

 この後も、せっせと鉱泉水やビールを運んでくれるので、日本のお菓子やCD(彼女が酒井法子のファンだったので)をあげたりしてました。私は月に一度、澳門(マカオ)のヤオハンで食料などを調達してましたのでついでです。

 

 工場赴任二年目の春節(中国の旧正月)を前にしたある日の事です。私は春節と国慶節の年2回、日本に一時帰国していました。中国中がお祭り騒ぎで仕事になりませんので、報告を兼ねた帰国(休暇ではありません)。

 

 この日は日本に帰る前日です。昼食で食堂にいると、花ちゃんがやって来て、「○○先生は明日帰るんですか?」「そうだよ、春節の後また来るからよろしくね」「私も実家に帰ります」「じゃ〜、ゆっくりして来なよ」。

 

 すると、思いつめた表情で(そう見えたのです)、「実家に帰ったらもうここには戻って来ません」。「会社辞めちゃうの」「親が帰ってこいと言うので帰ります」「そーか、ちょっと寂しくなるなぁ」。正直言うと妹的な存在でした。

 

 すると、「今日の夜、一緒にお話しても良いですか?」。断る理由は無いので、「いいよ」と言ったものの、「待てよ何の話をするつもりだこの子は?、まさか逆プロポーズでもされるのか、やばいよやばいよ」(白楽雲心の声)。

 

 そこへビルがやって来て、「○○サン、アナタ、アス、二ホンへ、カエリマスカ(彼は片言の日本語が喋れる様になっています)」て聞かれても、フライト予約したのお前だろ。「アナタ、コンバン、ノミニイキマス」て、そこは聞けよ。

 

 「あっ、良い事考えた」(心の声)、「ビル、コンバン、オンナノコモサソッテ、カラオケイキマセンカ(何でお前まで片言なんだ)」「OK、没問題(問題ない)」「花ちゃん、君の友達誘って皆でカラオケに行こうよ」、「好的(良いですよ)」。

 

 カラオケに行けば、女の子は歌に夢中になるから、シビアな話はしなくて済みそうです。ピンチの時、悪知恵が働く白楽雲です。あくまでもピンチの時だけです。それ以外は品行方正で通っています(ホントかぁ)。

 

 その晩、工場の通勤用マイクロバスを借りて、いざカラオケへ。女の子約5人、男が約10人、後から来る奴らもいるから20人くらいか?。「多ければ多いほど好都合だぜ、上手く行きましたなぁ旦那、全くだぜ、へへ・・・」。

 

 ここで一つ書き忘れた事があります。食堂で花ちゃんから一つの包みを貰いました。御世話になったから記念にと、日本に帰ってから開けてと渡されたのです。「何かな、まぁ取り敢えず荷物の中に入れておくか」。

 

 カラオケに着くと、一番大きな部屋を借り、私達は部屋の隅で恒例となっていた遊びをしながらの飲酒です。案の定、女の子たちはカラオケに夢中です。暫くすると、花ちゃんが私の隣に座り、一緒にやりたいと言うのです。

 

 遊びと言うのは、三つの言葉「チチザヤチチザ(意味は忘れました)」「ロバタイヤロバタイ(ロバートさんロバートさん)」「マガラヤマガラ(バングラディッシュバングラディッシュ)」にそれぞれ手の振りがあり、言葉と振りが合わないと負け、相手と同じ言葉を続けたら負けと言う簡単な遊びです。

 

 実はこの頃、ビルの考案した日本語バージョンで遊んでいたのですが、花ちゃんがいるのでオリジナルです(分からないと思いますが念の為)。どんな言葉かは女性読者様に嫌われますので言えません(ビルの発案ですのでお許しください)。

 

 負けたら酒を飲むのです。花ちゃん初戦から負け、無理して酒を飲んでいます。流石に可哀相になり、私が代わりに飲んでましたが、ほぼ連戦連敗、悪いと思った花ちゃんは、途中から自分が飲むと言って無理して飲んでいます。

 

 私はその姿を見て、「この子は私と話がしたかっただけなのに、悪い事をした」と言う感情に襲われたのです。何か後ろめたい感覚を覚え、飲んでいても楽しくありません。すると私は妙案を思いついたのです(また悪知恵か)。

 

 @私が彼女に告る→流石に日本人との交際は断る→私が恥をかく→彼女の良い思い出になる。

 

 A私が彼女に告る→彼女がOKする→親が反対する→彼女は諦める→彼女の良い思い出になる。

 

 この発想を見て、如何思いますか、余分な酒を飲んでかなり思考能力が低下している上に、潮汐力の影響で気が大きくなった結果です。冷静に考えればBが出現するはずです。これが(囲碁将棋で言うところの)勝手読みと言うやつです。

 

 花ちゃんの良い思い出を作ってあげようと思った私は、ビルがトイレに行って中断した隙に花ちゃんに「春節後にここに戻って来てくれたら、私は貴女と結婚したい、親と相談して下さい、貴方が帰って来なければ諦めます」。

 

 彼女は戸惑いの表情を見せたのですが「分かりました、絶対戻って来ます」。違うでしょ、返事は今じゃないの、でもここまでは想定内です。私が親とちゃんと相談する様に言うと、「結婚は自分で決める事です」と来たもんだ。

 

 狼狽えた私は通訳を呼び、事情を説明すると「何て事言うんだ、本気なんですか」。「そんな事如何でも良いから、親の了承を得る様に言ってくれ」、その答えが「親が反対したら必ず説得しますから、心配しないで下さい」。Bがある事を想定出来なかった私の失態です。

 

 「まぁいいか、どうせ反対され諦めるだろう」(心の声)と一抹の不安を胸に帰国した白楽雲は「何であんな事言ったんだろう」と後悔しつつ、彼女のくれた包みを思い出し、開けてみると瓶に詰まった手作りの無数の小さな星です

 

 手紙が入っていたので読んでみると「○○先生、お世話になりました、何もお返しできませんので、366個の小さな星を送ります、1年366日が幸せであります様に、謝謝」と書かれています。

 

 366と言う間違いが御愛嬌ですが(思わず笑ってしまいました)、この時私は彼女と結婚しようと本気で思ったのです。10歳も年下の小娘に白楽雲が落とされた瞬間です(策士、策に溺れるたぁ〜この事でぃ、ざまぁみろ)。

 

 私がこんな恥ずかしい事を申し上げるのには訳があります。春節とは旧暦の1月1日で新月です。私は新月の間際に深酒した上に、人生の重大事を弄んでしまったのです。その報いは一生ついて廻ります。お気を付けください。

 

 また、花ちゃん(現妻)の実家は海南客家で、義父はこれから私を長男(妻の兄は14歳で亡くなったのです)だと思う事にしたと言って、私に風水の手解きをしてくれました。私の師でもあります。

 

 実父から「楽雲気法」、義父から「客家風水」を教わり、現在の私がいます。私が決して望んだ訳ではないのですが、こうなる運命だったと納得しています。結局抗ったとしても、流れる雲の如く行くところに行くのですね。

 

 実父は6年前に、義父も去年他界しました。私は二人の師から学んだ事を守って行こうと決めたのです。

 

 ここまで、長々と綴って参りましたが、これが「古代風水研究会」設立の経緯です。途中おちゃらけた部分が多々あったと思いますが、何卒お許しください。こんなつまらない話を真面目に書けませんので御容赦を!!


関連ページ

楽雲気法
古代風水研究の原点となった「楽雲気法」が如何にして我が家に伝わったのか、その経緯を明かします。

 
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