幼少期の経験と人格形成

謝りなさい

謝りなさい

私が小学校に上がって間もない頃、やはり5月の初旬だったと思います。担任の先生は新任(先生1年目)の女性でした。大人しく、ちょっと暗い感じの方だったと記憶しています。

 

 その日は、雨が降っており、まだ友達も少なく、席の近いもの同士教室の隅で馬鹿話をしていた時です。担任の先生が同じクラスのまだ話もした事ない男子の手を引いて、私のところに来たのです。

 

 先生は私に「この子に謝りなさい!!」と言うのです。「如何して謝るの?」と聞くと、「とにかく謝りなさい!!」と言うのです。私は話もした事のない男子にも「何で謝るの?」と聞いたのですが、何も言いません。何が何だか解りません。

 

 代わりに先生が声を荒げて「謝れと言ったら謝れ」と大声で叫んだのです。クラス中の子供が私の方を見ています。私が先生を見ると、先生の眼は、保育園の保母さんと同じ目をしていました。憎しみの籠った眼です。

 

 私は仕方なく「ごめんなさい」と言ったのですが、先生は「もっとちゃんと謝りなさい」と許してくれません。大きな声で 「ごめんなさい」と言わされました。先生はその男子に「これでいいね」と声をかけ、その子も頷き、先生はその子の手を引いて教室から出て行ったのです。

 

 その後、その男子に「僕が何をしたのか教えて」と聞いたのですが、ただ黙っているだけで何も言いません。全く訳の解らない出来事でした。

 

 そして、1年生の年度末、担任の先生は学校を辞めました。転勤ではなく先生を辞めた様です。理由はまたしても解りません。

 

 2年になり、あの男子にもう一度、あの時の事を聞くと、「先生が僕の手を引っ張って、無理やり連れてかれて、何の事か僕も知らない」と言う返事でした。いったい何だったの?。

 

 話は変わりますが、私の母方の祖母は、知る人ぞ知る霊能者で、頼まれると霊を呼び出して助言をしていた様です。大金など取らず、気持ちだけ受け取っていた様です(質素な暮らしをしていました)。

 

 年に数回祖母の家に行くと、小銭でお小遣いをくれるのです。そして、必ず私の手を握り霊視するのです。お小遣いは嬉しいのですが、霊視される私の気持ちが如何なものか、お解かりいただけるでしょうか。

 

 祖母曰く、私には前世の因縁があり、トラブルに遭いやすいが、父方の曾祖母がついて守ってくれているのだそうです。その因縁とは何かは祖母は30年近く前に亡くなっていますので知る由はありません。

 

 もしかしたら、私は前世で女性に対して酷い事をしたのかも知れないと考えた事もあります。もしそうだとしても、現世の私は善良に生きていますので、どうかお許しいただきたいものです。

 

 もし読者の中に私の被害者がいたならば、決してこれからも悪さは致しませんので、引き続き御愛顧いただきます様、お願い申し上げます。

 

 ここでお断りしておきますが、当ブログは決して霊感ブログではありません。


火遊と冤罪

火遊と冤罪

小学校2年生の秋(10月中旬)、昼休みに仲良し3人組で校舎の隅に行くと、焚火の跡が燻っています(運動会で出たゴミを燃やしていたのでしょう)。

 

 正義感溢れる(好奇心溢れるの間違いだろ)白楽雲少年と仲間たちは、火事になってはいけないと、砂をかけたり棒で突いたり足で踏んだりして消火に取り組みました(エライ)。

 

 そこへ上級生のお兄さんが通りかかり、「火を消したら先生に叱られるぞ!!」と言うのです。今度は散乱している紙くずや落ち葉をかき集め、火を熾すのに取り組みました(エライ)。

 

 やっと火が点きだした所へ上級生のお姉さん3人組が通りかかり、「火遊びしてる!!」と言うなり1人は校舎の方へ走って行きました。残った2人が、先生に言うよと言っていましたが、「火を消したら先生に叱られるの」と私達は火を大きくするのに夢中になっていました。

 

 「こらぁ〜、何やってんだぁ〜」と教頭先生が走って来ます。憐れ私達3人は職員室に連れて行かれたのです。

 

 私の担任は超ベテランの女性で、戦前の教育を受けた怖くてぶっきらぼうで、しゃべり方は男の様な先生でした。教頭と担任は代わる代わる私達を責め、言い訳も聞いてくれないのです。結局、居残りさせられ反省文を書かされました。

 

 親に連絡されたので、家でも母に叱られたのですが、理由を言うと父は「灯を消したのは良し、そのまま立ち去るべきだったな」と、あまり叱られなかったのを覚えています。

 

 それから2ケ月程経った頃の朝、先生が「昨日××町(私の家の近く)で山火事がありました。残念な事に、このクラスに火を点けた犯人がいます」と言うのです。「誰だ誰だ」と私たち全員が周りを見渡していると、「○○(私)君です。○○授業後職員室に来い」と言われました。

 

 「何故僕が?」と思いました。、皆が私の方を見て「ぶつぶつ」言っています。

 

 職員室で担任の聴取が始まりました。

 

 「何で火を点けた?」

 

 「火なんか点けてません」

 

 「嘘言うな」

 

 「嘘じゃない」

 

 「白状しろ」

 

 「何処が燃えたの?」

 

 「お前が知ってるだろ」

 

 「知りません、一緒に遊んでた友達に聞いて下さい」

 

 「強情な奴だ、お前が火を点けたのを見た人がいるんだ」

 

 「誰ですか?」

 

 「もういい、警察が調べてるから覚悟しろよ、教室に戻れ!!」

 

 教室に戻ると皆白い目で見ています。仲良しの一人も「お前ホントにやったのか?」と言います。「やるわけないやろ」と言いながら、「如何しよう、ブタバコに入れられる、クサイメシを食わされる」と本気で悩みました。

 

 当時、刑務所を「ブタバコ」と言って、悪い事をすると「クサイメシ」を食わされると親から言われていたのです。

 

 家に帰ったらどんなにか親を悲しませる事になるのかと、しょんぼり帰ったのを覚えています。家に帰っても親は何も言いません。私も言い出せなくて、2・3日が経ちました。

 

 朝、先生が「○○君、授業後職員室に来なさい」。「もう終いだ」と泣きそうになりましたが、職員室に行くと先生は上機嫌で、「お前が犯人でない事が解った、火遊びするから疑われるんだ、解ったか」でした。

 

 教室に戻ると、「お前今度何したの?」「犯人じゃない事が解った」「なんだつまんないなぁ」てな事に。「何々」「○○犯人じゃないんだって」「へ〜そうなんだ」「でも先生朝何も言わなかったよね」「ほんとかなぁ」「でもさぁ」・・・

 

 取りあえず、私の冤罪は晴れ、クラスにも知れ渡ったので良かったのですが、先生は朝、みんなの前で私は犯人でないと言うべきだったと思います。

 

 その前に、私が火を点けたのを見た者などいなかったのだろうと思います(本当はどうなんだぁ)。私を犯人と決めつけ、白状させたら何か御褒美でも貰えたのでしょうか。教え子を信じられない先生は悲しいですね(お前が怪し過ぎるんだって)。

 

 冤罪なんて何処にでも転がっているのです。別々の独立した事象が重なり合うと火のないところから煙がたち始め、大きな火になってしまう事もあるのです。皆さんも気を付けてね(そんな事起きるのはてめぇだけだろ、前世のなんたらで)。やはり、前世が関係してるのでしょうか(「謝りなさい 」参照)。

 

 実はこの担任は3年生でも担任と成り、私の人生最初のピンチを迎えるのですが、それは次回に・・・ 


お宅の坊は・・・

お宅の坊は・・・

小学校3年生の秋の事です。担任の先生は2年生の時と同じベテラン女性教師です。

 

 2年生の時の出来事(「火遊びと冤罪」 参照)以来すっかり問題児と成った私は、学力(成績)の上でも問題児となっていました。「3年2組の三馬鹿」と呼ばれていたのです。先生個人の総合評価では最下位だつたでしょう。

 

 ある日先生が、「今日お前の家を訪問するから家の人に言っておきなさい」と言うのです。本能的に何か嫌な事を言われるのではと思ったのですが、拒否出来ません。

 

 家で母に言うと「お前また何かしでかしたのか?、家庭訪問の時期でもないし、仕事が忙しいのに(自営業)困るなぁ」と言う返事が返って来ます。母は応接間を掃除しだし、私は先生に出すお茶菓子を買いに行かされました。

 

 今では問題となりますが、その当時はお茶菓子は当たり前、お金持ちの家は付け届けをする時代です。先生に可愛がられる子はお金持ちの子か、勉強の出来る子と相場が決まっていたのです。

 

 そして先生が来ました。父が応対し、母がお茶菓子とお茶を持って行ったまま戻って来ません。気が気ではない私にとっては永い永い時間です。

 

 先生が帰ってから父は姉を呼び、今日から弟の勉強を見てやれと言って、強制的に勉強させられたのですが、姉は匙を投げ「この子全く解ってない、無理」と言って逃げて行き、父が代わりに見てくれたのですが「だめだな」と言って出て行ってしまいました。

 

 数日後、先生が「お前の父親には親しい県会議員がいるのか?」と言うので、「××××ですか?」と言うと「そうか、ところで、こないだの話は無かった事にして下さいと家の人に言っておきなさい」と言われました。何の話?

 

 私は、母に何の話か問い詰めると、先生曰く「隣の小学校に特別なクラスが出来る事になり、私の小学校からも候補を出す様に教育委員会から言われています、失礼ですが、お宅の坊は勉強が出来ないと言うより、理解が出来ないので、坊にとっては特別なクラスに通った方が幸せだと思います、こちらで手続きをさせていただきますので、御了承ください」と言われたとの事。

 

 父は「成績が上がれば良いのでしょ、それから、知人と相談させていただきますので、今は了承出来ません」と言い、先生は「では検討の方、よろしく」と言って帰ったのだそうです。

 

 「これですべてが読めたぞ」と少年コナンの如く白楽雲少年は納得したのでした。父が懇意にしていた県会議員に調べて貰った様です。三馬鹿の残り二人にも聞いてみたのですが、そんな事は言われてないとの事。私をターゲットに選んだのです。

 

 私は父に感謝すると同時に、母に聞いたのですが、あの晩、気丈な父がむせび泣いていたと聞き、少しは勉強しようと思ったのです。私に訪れた人生最初のピンチは父の御蔭で回避出来たのでした(父ちゃんありがとね)。

 

 この後、先生は私にあまり関わらなくなり、無事4年生になる事が出来ました。そして別の学校に転勤になったのです。しかし、三馬鹿の一人T君は隣の小学校に転校して行きました。私は複雑な思いだったのですが、子供ですのですく忘れてしまったのです。

 

 中学生になり、T君と廊下ですれ違ったので、「久しぶり、元気だった」と話しかけたのですが、彼は私を見て何も言わず行ってしまいました。私の事は忘れてしまったのか、それとも・・・

 

 因みに、その時の元県会議員さんは、私の父の葬儀に列席して下さり、二重に感謝申し上げました。今は息子が地盤を継いでいます。ここだけの話ですが、私は息子議員には投票していません(くれぐれも御内密に)。恩知らずと言われるかも知れませんが、それとこれとは話か違いますので。

 

 今ならば、ありえない話かも知れませんが、4・50年前はこんなものでした。もっと酷い事もあったと思います。知らない所で誰かの「見えざる手」が動いているのです。それは今でも存在しているでしょう。

 

 子供を守れるのは親しかいません。私には出来るでしょうか???


女なんて嫌いだ!!

女なんて嫌いだ!!

小学校3年生の夏休みでした。たまたま、近所の友達が皆留守で、私は珍しく家にいたのですが、姉の友達が五人程遊びに来たのです。

 

 私は一人で虫取りに行こうと思ったのですが、女の子たちは、私も一緒に遊ぼうと言うのです。女の子が嫌いではない白楽雲少年は、虫取りは止めて一緒に遊ぶ事にしました。

 

 しかし、遊びと言っても「あや取り」「おはじき」「御まま事」などなど、男の子には興味のないものばかりです。それでも姉の友達なので、我慢して付き合っていました。正直つまらなかったです。

 

 一人の子が、「私の家に来ない」と言い出し、その子の家に行く事になったのです。私は「やれやれこれで解放される」と内心喜んだのです(付き合っていられません)が、私も来いと言うのです。

 

 「子猫を飼っているから見せてあげる」と言う言葉に動かされ、姉も来いと言うので、仕方なくついて行く事にしたのです。

 

 その子の家は、私の家から10分くらいのところにあり、歩いて行ったのですが、家に到着し、玄関から入ろうとしたその時、「やっぱり男の子はダメ〜」と締め出されてしまったのです。姉も何も言ってくれません。

 

 私は来た道を独りトボトボと歩いて帰りました。正直「悔しくて、悲しくて」、つまらない遊びに我慢して付き合ってやったのに「そりゃぁないぜぇ〜」。初めから来いと言わなきゃいいのに・・・

 

 空を見上げると、太陽が燦燦と降り注ぎ、私は心の中で「女なんて嫌いだ!!」と叫んでいました。


女なんて大嫌いだ!!

女なんて大嫌いだ!!

小学校3年生の春休みでした。祖母の7回忌の法要で伯父(父の兄)の家に来ていた時です。叔父(父の弟)の娘三人と姉と私で遊んでいました。

 

 すると、近所の家の女の子が一緒に遊ぼうと仲間に入ったのですが、「ケンケンパ」や「ゴム飛び」です。私としてはあまり楽しくは無かったのですが、仕方なく一緒に遊んでいました。

 

 しばらく遊んでいると、その子が「私の家に来ない」と言うのです。「子猫がいるから見せてあげる」と。「オイオイ何時か何処かで同じフレーズを聞いた様な、まぁいいか」とその子について行きました。

 

 家につき、玄関から入ろうとした瞬間「男の子はだめ〜」の一言。この時も、従姉妹も姉も何も言ってくれません。

 

 近くの石垣に座って、目の前に広がる一面蓮華色に染まった田園を眺めながら「女なんて大嫌いだ!!」と心で叫ぶ、白楽雲少年でした。

 

 晴れた空の上からは、ひばりのさえずりが、あたかも女の子の笑い声の様に降り注いでいました。

 

 私は、この頃から女の子と遊ばなくなったのですが、その影響は、この年になっても残っています。

 

 何故でしょう。外国の女性とは平気なのですが、日本の女性と話すのが苦手なのです(外国人が好きなだけだろ)。いや、日本語を喋る外国人女性も苦手なのです。


円周率って何?

円周率って何?!

皆さんは円周率って何か解りますか(解らない訳あるかい)。

 

 私が小学校の3年生の頃に習ったと思いますが、理解出来ませんでした(阿保ちゃう)。皆さんは理解できましたか。

 

 私はそれまで算数は嫌いではなかったのですが、この円周率って奴の御蔭で、嫌いになってしまったのです。

 

 先生(「お宅の坊は」 参照)が「直径×3(まだ少数を理解してませんので)が円周の長さになります」と教えてくれたのですが、「何故3なのか」、「2じゃダメなんですか」(どこかで聞いたフレーズだな、レンホウか?)。

 

 「解らない子は手を挙げろ」と言うので、私は自信満々手を挙げました。「何処が解らん?」と言うので、「直径×3が円周の長さになりますと言うところが解りません」と言うと、「直 径 の 長 さ を 3 倍 す る と 円 の 周 の 長 さ に な り ま す」と、丁寧に説明し、「解ったな」でした。

 

 私の聞き方も悪かったのですが、私は理解出来ず、「3は何処から出て来たの」(これも聞き方悪いなぁ)と言うと、「本当は3ではなく、3.14だけど難しいから3で覚えろ」(3ではなく、3.14、でも3、て何のこっちゃさっぱり解りまへん)。

 

 私はなおも食い下がり、「何で3なの?」と言うと、「うるさい!、他の子の邪魔になるから黙れ」と一括され、渋々席に座りました。「他に解らない子は?」(誰も手を挙げる奴はおらんわな)。「解ったなら次行くぞ」と先に進んで行きます。

 

 私は「何で3なの?」が頭から離れません。結局それ以来どんどん遅れて行き、算数が嫌いになってしまったのです(本当ですか)。本当です。

 

 「お宅の坊は」で姉と父が私に勉強を教えようとした件も実は円周の問題だったのです。姉が直径に3.14を掛けろ言います。私が「先生は3をかけろと言ったよ」と言うと、「だったら3を掛けなさい」と言うのです。「だから、どっち何だよ・・・」。

 

 まぁ、そんな事より「何で3なの」に対しては、「お父さぁ〜ん!、この子馬鹿だからだめぇ〜」と逃げて行き、父にも匙を投げられた次第です。憐れな白楽雲少年です。
 私が、円周率を理解したのは、中学校の一年の時でした。NHKの「通信高校講座」と言う番組です。小学校の5年生の頃から、同番組の理科系の時間は見てたのですが(実験などが面白かったので)、数学は見た事が無かったのです。

 

 たまたまチャンネルを回すと(当時チャンネルは回すものだったのです)、和算について解説していました。「和算って何?」と興味を持った私は、暫く見ていました。

 

 すると、和算で円の面積を求めてみましょうと言って、講師が「和算における円周率は0.785です、そして、半径ではなく直径を使います、よって、直径×直径×0.785と成ります」と言うのです。

 

 この時「目から鱗が落ちた」と言っても過言ではありません。西洋人は半径、日本人は直径から面積を求めようとし、それに合った係数が円周率なのだと(遅過ぎるだろ)。

 

 実は、これは実用的なのです。直径2mの円の面積は簡単に計算出来ますね、1×1×3.14=3.14u。では、直径1mの円だと如何でしょう。ちょっと面倒ですね。でも和算を使えばほらこの通り、1×1×0.785=0.785u。

 

 私はこれで救われました。結構1メートルの円に関する問題が出るのです。出題者の意地悪ですね。でも私には「そんなの関係ねぇ〜」です。(お子様に教えてあげては如何?)

 

 私の息子は理解している様です(立派だなぁ)。私が嫁に「あいつ円周率理解しているみたいだから心配ないな」と言うと「へー、私は理解出来ない」。「だって、何で3.14なの、先生に聞いても教えてくれなかったから、算数は嫌いになった」と言うのです。

 

 「オー同志よ〜、何処の国でも同じなんだぁ〜」。私は妻との愛がより深まったと感じて、「だったら、教えてあげようか?」と言うと、「結 構 で す」。「つれないなぁ〜」。


オガライト

オガライト

息子の中学入学式(4月7日)の晩、焼き肉を食べに行きました。何時もは兎に角安いチェーン店なのですが、ちょっと奮発して炭火焼のチェーン店です。

 

 でも、炭火焼と言いながら、「炭じゃないじゃん、俺は騙されないぞ」と言いつつ文句を言え無い白楽雲です。

 

 竹輪の様に穴が開いた円筒形の塊です。圧縮炭か、オガライト(おが屑を圧縮固化したもの)か?。ところで、オガライト今でもあるのか?。私が子供の頃、風呂釜の焚き付けに使用していた固形燃料の一種です。

 

 そう言えば、私が初めて覚えたカタカナがオガライトでした。私は小学校になっても文盲だったのです。それでも平仮名は何とか覚えたのですが、カタカナが覚えられなかったのです。

 

 ある日、オガライトの袋を見て、姉に「これオガライトって書いてあるんでしょ」と言うと、「お母さぁ〜ん、○ちゃんカタカナ読める様になったよ〜」と走って行きました。読めたんじゃなく知ってただけなのに。

 

 姉が驚くほど酷かったのです。折角喜んでいる家族を落胆させる訳にいかず、オガライトは覚えました。今でもカタカナは苦手です(ちょっと考えてしまいます)。私は言語中枢の発達が遅かった様です。

 

 私は生まれて9か月で歩いたんだそうです。父は喜び、これも楽雲気法の御蔭だと思ったそうです。しかし、私は3歳までしゃべらなかったと言います(これも楽雲気法のせいじゃないの・・・絶対違います)。

 

 それでも、声を出さない訳ではなく、機嫌良く遊んでいる時は「なんのんなんのん、くさのはぶらぁ〜」を連呼(意味は不明です)。話しかけると「おおー、おおー」としか言わず、父の落胆は凄まじいものだったそうです。

 

 ある日、母が置いたはずの為替が見当たらず、探していたのですが、もしかしてと思い、私に「これ位の紙知らない」と聞くと「おおー、おおー」。聞くだけ無駄だったとまた探していると「おおー、おおー」「はいはい、後でね」。

 

 その後、「おおー、おおー、おおー、・・・」の連呼に溜まらず私の方を見ると、私が箪笥の上の方を指さし「おおー、おおー」と言っているので、もしやと見てみると、何と為替が出て来たのです。

 

 丁度父がやって来たので、「為替タンスにしまったの」と聞くと「おお」。父の口癖です。母は父に経緯を話し「この子言葉解るみたい」と言うと「しゃべれないのに解る訳あるかい」と言って出て行ってしまいました。

 

 母は、もう一度私に、「お父さんどこ行った」と言うと「おおー」と言ってその手はドアの方を指さしていたそうです。

 

 お釈迦様が生まれた時、天と地を指さして「天上天下唯我独尊」と言ったそうです。私は箪笥を指さして「おおー、おおー」、何か似ていませんか(次元が違い過ぎるやろ)。

 

 今日は天気が良く、気分がいいですね。「なんのんなんのん、くさのはぶらぁ〜」


藤井先生@

藤井先生

これまで嫌な思い出ばかりお話しましたが、良い思い出もお話したいと思います。

 

 ・チマキ貰えなかった事件
 ・謝りなさい
 ・「火遊び」と「冤罪」
 ・お宅の坊は・・・
 ・円周率って何?

 

 上の5つの記事で、保育園の年長、小学1年、2年、3年と先生に恵まれなかった(私に問題があったのかも知れませんが)話をしましたが、4年生の時の担任の先生についてです。

 

 お名前を公表しても差し支えないと思ったのですが、個人情報なので名字だけに致します。

 

 担任は40歳位の男の先生(男の人は初めての経験です)。教室で自己紹介。先ず先生が黒板に、藤井○○と大きく自分の名前を書き、名前の説明からです。
 話は次から次へと変わり、皆先生に釘付けです。どんな内容かは忘れてしまいましたが、兎に角面白く、クラス全員が聞き入っていたと思います。

 

 忘れてしまったと言う事は大した話では無かったのでしょう。話し方と態度が皆を引き付けたのだと思います。何時しか時間が経ち、隣のクラスはもう帰り始めましたが、誰も帰りたいと思っていません。

 

 流石に先生も拙いと思ったのでしょう。「今日の話はお終い、教科書忘れず名前を書いて来いよ」。皆「え〜、もう終わっちゃうの」、先生「もう帰る時間だから、我慢しなさい」。

 

 それでも帰ろうとしない私達に「この続きはまた今度するから、皆の自己紹介も今度して貰うよ」と言われ、渋々帰ったのを覚えています。

 

 毎日、朝の会はほとんど先生の話で終わり、一時間目になだれ込むこともありました。5時間目も最初の10分位は授業とは関係ない話をしていたと思います。

 

 時には「今日は天気がいいので授業は止めて外へ出よう」と言って近くの雑木林で、ある時は課外授業、ある時はかくれんぼと、兎に角型破りな先生でした。

 

 それでいて、授業が遅れる事も無く、私は逆に心無し勉強が楽しくなったと思っています。まだ出来るとは言えないレベルでしたが。

 

 また、依怙贔屓せず公平な先生でしたね。一部今まで依怙贔屓されていた子は不満に思っていたかも知れませんが。

 

 こんな事がありました。家庭訪問の日、私の町内は一番最後だったのですが、皆先生が大好きで、次の子の家を案内するのです。

 

 無事家庭訪問が終わり、先生は「みんなありがとう、気をつけて帰れよ」と言うと、私達は「アイス買って」と冗談で言ったのですが、「しょうがないな」と近くの駄菓子屋で買ってくれたのです。

 

 翌日の朝の会で「昨日○○町の子が案内してくれたので、アイスを買ってあげました、でも不公平だから他の町内の子には鉛筆を配ります、○○町は無しだぞ」と、鉛筆を配ったのです。

 

 因みに、お茶菓子には手を付けず、お茶だけ飲まれたと思います。いや、お茶菓子無用と言われたと思いますが、皆用意しますよね。

 

 私は鉛筆も欲しかったのですが(ガメツイなぁ)、こんな先生いるんだと初めて思ったのです。


藤井先生A

藤井先生

先生が話してくれた事を今思い出しました。

 

 一つは、先生の出身地は長野で、冬になると1階が雪で埋まってしまうのだそうで、出入りは2階からするとか。

 

 学校は雪洞が作られ、それを通って校舎に入り、2階・3階から雪にダイブし、雪を掘りながら雪洞に脱出する遊びをしていた等々。

 

 もう一つは巨大な幽霊と出くわし、身の上話を聞いてやったと言う話。髪の長い女性で、眼は車のタイヤ程、足が無いのだそうです。

 

 今から思えば嘘と言わないまでもかなり大げさな話だったと思います。でも、4年生の私は本当だと思ってしまう位、話し方が上手かったのです。

 

 雑木林での課外授業は、木や草の名前、虫の名前、草笛の吹き方、つつじの蜜の吸い方などなど、この御蔭で理科が好きになり、他の教科も相対的に成績が上がったのでしょう。

 

 かくれんぼでは先生は名人で、絶対に見つかりません。ハンディをやると言って笛を吹くのですが、あっちから聞こえたと思うとこっちから、またそっちと私達は何時も翻弄されていました。

 

 私は先生の秘密を知りたいと、こそっりつけて行くと、鬼からさほど遠くない木に登り、両掌を口に添えて、あっちを向いて「ピー」こっちを向いて「ピー」そっちを向いて「ピー」。その都度鬼達はあっちこっちそっちを探しに行くのです。

 

 「先生ごめんなさい」。先生の奥義は私がこっそり盗ませてもらいました。今もその奥義は古代風水の中に受け継がれています(な訳ないだろ)。

 

 でもこの年、私達のクラスはインフルエンザで休んだ子が学校で一番少なかったと記憶しています。冬でも太陽に良くあたった御蔭だと思います。

 

 隣のクラスは学級閉鎖になっのですが、羨ましいと思わなかったですね(楽しかったから・・・)。

 

 夏休みに、巨大な幽霊を見せてやるから「学校に泊まろう」と言って、親の了承を得て計画したのですが、依怙贔屓してくれなくなった子の親が反対し、ポシャった時の事です。

 

 当然私達はその子を責めたのですが、先生は「先生が学校に内緒で進めたからダメになったので、その子のせいじゃないよ」と庇ってましたね。

 

 代わりに、お家の方同伴で、「夕べの会」をやるからと、他のクラスも一緒に、飯盒炊爨、肝試し、花火等々「楽しかったなぁ」。

 

 この企画はこの年限りで終わったのですが、現在、毎年「親子の集い」と称して、同じ様な企画が行われています。私も二人の子供と参加しました。

 

 これが藤井先生の発案から始まったのか、別の先生の発案なのか解りませんが、私は嬉しかったですね。

 

 今こんな先生がいたら問題になるでしょうね。あれもダメ、これもダメ、それもダメと制約ばかり設けて、子供の為と称して、学校の責任、親の責任を問われるのを避けているのでしょう。

 

 大人がこうなのですから、子供も窮屈な思いをしているのでしょう。その捌け口が嫌な問題を引き起こしているのではと思ってしまいます。今こそ藤井先生の様な方が先生であって欲しいと思うのは私だけでしょうね。

 

 私を邪魔物扱いしなかった初めての先生です。少なくとも、私にとって平穏な小学校生活が送れたのは、このたった1年だけなのです。

 

 先生がお元気であれば80歳は超えていると思います。今でもお元気でいて下さると嬉しいのですが・・・。


駄菓子屋

駄菓子屋

私が子供の頃、良く行く駄菓子屋が幾つかありました。

 

 私の家は小高い丘の上にあり、南側の急な斜面を降りたところに「ばぁ〜やん」と言う店、北側の緩やかな斜面を降りたところに「あさのさん」、そこから東に「じぃ〜やん」、更に東に「名前忘れた」がありました。

 

 頻度としては、「ばぁ〜やん」:「あさのさん」:「じぃ〜やん」:「名前忘れた」=1:5:1:3程度です。

 

 「ばぁ〜やん」が距離的に一番近いのですが、ある日買に行くと店番のお婆さんが「なんだ来たのか」・・・、「早く買えよ」・・・、「まだか」・・・、「はよ買え、はよ買え、走って買え」と言うのです。それ以来、ほとんど行かなくなりました(笑)。

 

 何といっても、「あさのさん」です。品の良い優しいおばさんが店番をしており、品数も多く、夏の氷は大盛サービスしてくれるのです。ある日、お菓子を買って帰ろうとすると「これ貰ってくれる?、預かってと言われたれど何日も取りに来ないから」と言うのです。

 

 日頃からお世話になっているおばさんの頼みです。男、白楽雲少年は一肌脱ごうと心に決め(嘘つけ、ただ欲しかったんだろ)、貰ってあげました。この頃、流行っていた仮面ライダーのカード付きスナック菓子(カルビー)です(当然カード無しです)。

 

 それからも度々一肌脱いでいましたね(セコイ奴だなぁ)。家に帰ると姉に「無駄使いばかりして」とよく言われましたが、女の子に優しい(その割には女の子に意地悪されたよなぁ)白楽雲少年です(「女なんて嫌いだ」参照)ので、姉に半分あげてました。

 

 「じぃ〜やん」は店番のお爺さんが身体が弱いのか休みが多く、品数も少ないので、「あさのさん」の抑え的存在でしたが、ほどなく閉店してしまいました。

 

 「名前忘れた」は一番遠かったのですが、冬のおでんが絶品で、品数も一番多かったかも。この店は、私の娘が小学校の低学年まで頑張っていたのですが、今は廃業されました。

 

 結局、子供の頃の憩いの場であった駄菓子屋さんは全てなくなってしまいました。でも、その当時のお店の方の事、店の匂い、お菓子を選ぶ時のわくわく感、お菓子の味、全てが良い思い出ですね。

 

 スーパーなどで昔のお菓子を見かけると、ついつい大人買いしてしまい、嫁(海外出身)に叱られています。子供の遠足に持って行けるからと言い訳するのですが、「遠足の時に買えばいいでしょ」と呆れられています。

 

 「この気持ちはアンタには解んないでしょうね」と心で呟く白楽雲です。だって、懐かしいからつい食べたくなるんだもん(子供の振りしたってアンタは只のおっさんだろよ)。
 今も、ラムネ食べながら書いてます。いや、ブルーハワイ味ですよ。つい両手で一掴み買ってしまったのです(嫁に内緒で)。


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