幼少期の経験と人格形成

野球部(球拾からピッチャーへ)

野球部

小学校の4年生の時、私は野球部に入部しました。野球部の顧問は大好きな藤井先生(小学生@の「藤井先生@」、「藤井先生A」参照)です。

 

 しかし、4年生は外野に散らばり球拾いしかさせてくれません。藤井先生は時々ノックで取れそうもないフライを打ち、私達の仕事を作ってくれるのですが正直退屈でした。

 

 程無くして、新人教師のT先生が野球部の副顧問になり、5年と4年の指導に当たる事になったのです。日替わりで球拾いの役目が回って来ますが、練習が出来るのです。

 

 毎日二人ペアで、交互に投手と捕手になっての投球練習が始まりました。一年後の投手不足に備えての養成の目的もあったのでしょう。

 

 そして、T先生を座らせての投球試験です。「今から一人ずつ投球してもらうぞ、先生にストライクと言われた子は右、ボールと言われた子は左で待ってなさい」と言われ、順番に投げて行きます。

 

 総勢15人程だったと思いますが、ストライクと言われたのは私を含め7・8人です(4年生は私だけ)。2投目を終えて残ったのは、私を含め5人。

 

 すると、「4年のくせに生意気に」と言う声が聞こえてきます。3投目、私はわざと外しました。「そら見ろ、まぐれに決まってるだろ」と言う声が聞こえます。残ったのは2人です。

 

 T先生はこの2人を投手候補とし、私を補欠にしてくれました。2人に引き続き投球練習をさせ、私に「お前わざと外しただろ、先生には解るぞ、何か言われたか」、「いいえ」。

 

 「まあいいわ、まだ身体が出来てないから、別の練習して貰うぞ、ボール握って見ろ」。私がボールを握ると、「やっぱりな、これは糞握りって言うんだ、ボールはこうして握る、解ったな」、「はい」。

 

 更に、「ボール投げる瞬間にスナップを利かせろ、こうして手首を返すんだ」。しかし、上手く投げられません。「よし、お前は校舎の壁で上手く投げられる様になるまで1人で練習だ」。

 

 こうして、1人投球練習をさせられたのです。

 

 私は子供の頃から野球が好きで(今はサッカーの方が好きで、野球はほとんど見ません)、お隣の倉庫の壁にボールぶつけて1人キャッチボールを暇な時はしていたのです。

 

 壁の一部分のコンクリートが絶妙の角度で、そこに当たると自分のところまでボールが帰って来るのです。星飛馬とは行きませんが「大リーグボール養成壁」を手に入れていたのでした。

 

 だから、元々コントロールは良かったのですが、ボールの握り方や投げ方なんて教えてくれる人はいませんので、嬉しかったのです。T先生は冗談も通じるし、的確に指導してくれました。.

 

 4年生の終わりには、スピードも格段に速くなり、補欠では無く第3ピッチャーの座を確保したのです。こうして、小学校4年生は、2人の先生の御蔭で充実した1年だったのですが・・・。

 

 しかし、5年になると成績不振の為、強制的に塾に行かされ(「暴力塾」参照)、泣く泣く休部する事になりました。全く残念な話です。

 

 今頃、野球の殿堂入りを果たしていたかも知れません(そんな訳あるかい)。野球解説者として引っ張りだこだったりして、ムフフフフ(お前正気か、もしも〜し)。

 

(つづく)


豹変(先生如何しちゃったの)

豹変

(「野球部(球拾からピッチャーへ)」からの続き)

 

 「暴力塾」(小学校A参照)から解放された私は、6年から晴れて野球部に復帰する事が出来ました。藤井先生は別の学校に転任してしまいましたが、T先生がいます。また、私のクラスの担任でもあります。

 

 4年生の時の様に、充実した学校生活が送れる筈だったのですが・・・。

 

 約10ヶ月のブランクがあるのですから、いきなりレギュラーに選ばれる筈はないとは思っていたのですが、T先生が私に宣告したのは球拾いです。

 

 それも、「4年生はもう球拾いしなくていいぞ、今日からこいつに1人で球拾いさせるからな、○○さっさと外野へ行け」と言われたのです。

 

 「俺が球拾い」と思いましたが、復帰したばかりですので仕方ないかと思い直し、終始球拾いに専念していたのですが、終わりがけに「○○来い、マウンドに立て」と言われました。

 

 「やっと、俺の出番か、投球してみろと言うんだな」と思いマウンドに立つと、いきなりノックの打球が私めがけて飛んできます。私は守備には自信がありますので、不意を突かれはしましたが何とか捕球しました。

 

 T先生は次々と私めがけてノックして来ます。ことごとく捕球する私を睨み付け、今度はファースト側、サード側へと打ち分けます。こんなの取れる訳ないのです。「何やってんだ、取れなかった分走れよ」。

 

 ノックのルールは、捕球出来なかった分だけグラウンドを走らされるのです。私は意を決して、先生がボールを放り上げた瞬間にダッシュで前に走り、横っ飛びしてサード側の打球を捕球しました。

 

 するとまた、私めがけてノックして来るのです。この至近距離ではボールをグラブで叩き落すのが精一杯で捕球など出来ません。最早為す術も無いのです。

 

 まるで「巨人の星」(若い人は知らないでしょうね)のオープニングシーンの様でしょ。結局、皆が帰宅しても私はグランドを走っていました。

 

 こんな事が続いたのですが、私のブランクを解消する為にわざとしているのだと思う様にして耐えていました。実は野球部だけではありません。

 

 授業中も、T先生は難しい問題を私に質問し、答えられないと「こんな事も解らないのか、立っとけ」です。授業が終わるまで立ちんぼです。

 

 例えば、日本の南にある国はと聞かれ、「オーストラリア」、「他には」、「ニュージーランド」、「まだあるだろ」、「パプアニューギニア」、「それだけか」、「インドネシア、フィリピン、マレーシア、シンガポ・・・」、「もういい」(恐い顔して)。

 

 「それなら、オーストラリアは正確に言うと日本から見てどっちにある」、「真南です」、「南だがどちらかと言うと」、「真南です」、「厳密に言ってだ」、「・・・、解りません」。
 「××さん(先生のお気に入り)」、「東です」、「そうだな、どちらかと言えば東だ、解ったか○○、立っとけ」。私は今でもオーストラリアは日本の真南だと思っています(誰が何と言おうとも)。

 

 あんなに熱心に野球を教えてくれて、優しかったT先生の豹変ぶりが信じ難かった白楽雲少年でした。「先生如何しちゃったの・・・」。

 

 小学校6年生はまだまだ始まったばかりです。次回、更なる地獄を御紹介します。「え、そんな事知りたくないって、どうか一つ聞いておくんなはれ」。

 

(つづく)


仁義なき戦(お代わり争奪戦)

仁義なき戦

(「豹変(先生如何しちゃったの)」からの続き)

 

 この頃、学校生活で唯一の楽しみは給食でした。朝から休み時間は運動場で走り回っていましたから、お腹が空くのです。この当時、朝も晩もどんぶり飯2杯は食べてましたが、全く肥らなかったですね。

 

 その頃、体脂肪率って言葉は無く、ローレル指数が肥満の尺度でした。100以下は痩せ過ぎとなるのですが、私は97で、栄養失調の手前です。今の私には何とも羨ましい身体でした。

 

 給食の残りはお代わり出来るのですが、「早い者勝ちで、恨みっこ無し」がT先生が作ったルールです。日によっては3着に入ってもあぶれる事もあり熾烈な戦いでした。

 

 参加者は私と先生と他数人で、ほぼ毎日、私が1着です(早食いでもあるのです)。熾烈なのは2着以下です。みんな必死なのです。先生・児童なんて関係ない、仁義なき戦です。

 

 ある日先生が、「○○いい加減にしろよ」と言うので、「早い者勝ちじゃないの」、「ちょっとは考えろよ」。私は「はい」とは言たものの、元はと言えば先生が作ったルールですので、冗談だと思っていました。

 

 家庭訪問の時、母は先生から、「お子さんに食事与えてますか」と言われ、「家は貧乏でも食事だけはしっかり与えていますよ」、「給食を他人の分まで食べてしまうから、皆困ってます(アンタがだろ)」。と言われたそうです。

 

 「そんな筈ない」と思いつつも、「お母さんからも注意してやって下さい」と言われ、私は叱られました。でも、先生が作ったルールです。私は気にせず1着を取り続けたのです(エッヘン)。

 

 ある日、何時もの様に一斉に「いただきます」を唱え、食べ始めたのですが、先生が勢いよく私のところに走って来ました。私が顔をあげると先生の右手が私の頬に鮮やかにヒット。

 

 私は不意を突かれ、持っていた先割スプーンを離してしまいました。

 

 私の手を離れた先割スプーンは反動で、空中を2回転に1回捻りを加えた決め技ムーンサルトで、隣の女の子のパンに突き刺さり着地。10点(内村航平か、本当に見たんかよ、え〜)。

 

 先生は「何でいただきますをしないんだ、だから何時も早いんだろ、インチキしたから今後お代わり禁止だ、解ったか」と言って戻って行きました。正に仁義なき戦ですね。正義は無いのか・・・。

 

 私は自分のパンと女の子のパンを交換し、暫く頬が痛くて食べられませんでした。隣の女の子が「いただきますしたのにね」と言うので、人差し指を口に押し当て「シー」のポーズ。聞こえたら大変です。

 

 この当時先生は独身で、多分、朝食抜きだったのでしょう。先生もお腹空いていたのでしょうね。秋に結婚されて、弁当持参になってからは、お代わりレースに参加しませんでした。

 

 私は、この事件以降一切お代わりはしていません。給食が残って、先生が○○食べろと言われても、意地でも食べませんでした。

 

 T先生は兎角日本を美化する事が好きで、日本を自慢する話を良くしていました。それ自体は構わないのですが、私にとっては迷惑千万な話です。必ず下記の様になるのです。

 

 「日本はアメリカ・ソ連に次いで、世界第3位の経済大国です、戦後、たったの30年で大きく発展しました、世界中から羨望の目で見られています」(そうなの、良かったね)。

 

 「ニュージーランドは日本と赤道を挟んだ反対の位置にあり、気候も、国土も日本と大して変わりませんが、日本は世界有数の経済大国、ニュージーランドは人より羊が多い遅れた国です」(へえ〜びっくり)。

 

 「いま世界では、日本人とニュージーランド人を入れ替えたらどうかと話題になっています、それだけ日本人は勤勉で優秀だと、世界中から尊敬されているのです」(本当ですかえー)。

 

 「○○、お前の様な奴がいると、日本がダメになるんだ、解ったか」(私に言わせると「貴方の様な先生がいると日本がダメになるんじゃないの」)。

 

 私はこの時、野球部を辞めたのです。いや、先生は認めてくれませんでしたので、自主休部ですね。先生に難癖付けられるのは、授業だけで十分です。身体がもちません。

 

 さて次はどんな悲劇が待っているのでしょうか。乞う御期待・・・。

 

(つづく)


好きな子、嫌いな子

好きな子嫌いな子

(「仁義なき戦(お代わり争奪戦)」からの続き)

 

 毎日の様にT先生から体罰を受けていた私は、もう慣れっこになっていました。クラスの女子達はそれを見越して、都合の悪い事があると私のせいにするのです。

 

 でも気持ちは解ります。私の様に叱られたくないですもんね。私も面倒臭いので、甘んじて叱られていました。だって、言い訳しても取り合ってくれませんし、余計に叱られるだけです。

 

 修学旅行の枕投げでも私1人がビンタされた様に、先生にとって私は眼の敵なのです(「女性の水浴び」参照)。私は早く卒業式が来ないかと何か月も先から願っていました。

 

 修学旅行から1ヶ月程経った頃です。T先生が、小さな紙を配りました。紙には、氏名、好きな子、嫌いな子と印刷されています。「まず、自分の名前を書いて下さい」と言うので皆従いました。

 

 「次に男子は好きな女子と嫌いな女子を、女子は好きな男子と嫌いな男子を1人ずつ書いて下さい」、「え〜、やだぁ〜、嘘でしょ」と当然反発の声。

 

 「たとえ好きな子や嫌いな子がいなくても、誰でも良いから必ず1人書きなさい」と威圧的です。皆は仕方が無く書いた様です。私は好きな女の子の名前は書きましたが、嫌いな子の名前が書けません。

 

 特にいないのです。いたとしても書くべきではないと思い、結局考えた末に、書かずに出しました。「怒るなら怒れよ、どうせ立たせるかビンタだろ、好きにしろよ」と投げやりです。

 

 この頃には、私の中でのT先生は悪魔そのもので、あからさまではありませんが、心の中で反抗的態度を取っていました。

 

 案の定、「1人嫌いな子を書いてない奴がいる、○○、何で書かん」、「書けません」、「誰かいるだろ」、「いません」、「誰でも良いんだ」、「いません」。

 

 先生は私の胸ぐらを掴み、「強情な奴だな」と言うなり、往復ビンタをしました。「これでも書かんのか」、「書けません」、「まぁ〜いいだろ、その代り後ろで立っとけ、よく見とけよ」。

 

 「往復ビンタと立ちんぼの両方たぁ〜、豪勢な事だぜ、でも、どんなに怒っても、どうせこの程度、殺す勇気なんかないだろボケ」と、悪態を心の中でつく、白楽雲少年でした(嫌な奴)。 

 

 「では発表するぞ」、「え〜、やだぁ〜、嘘でしょ」と、当然のブーイング。「記入者の名前は言わないから静かにしなさい」。

 

 「嫌われてる男子から、え〜○○、次○○、○○、・・・、○○、××、○○、・・・、○○、○○」。○○と呼ばれる度に、皆私を振り返ります。自分の名前に正の字が増えて行きます。いやな時間でした。

 

 結局一人を除くクラスの女子のほぼ全員から私は嫌われていると言う結果です。当然ですね。それが先生の狙いですからね。「○○、お前がダントツの嫌われ者だな」と、したり顔の先生。

 

 「次に好かれている男子いくぞ」。結果は、私と仲が良いY君がダントツ1位で他数名の名が読み上げられましたが、何と私に1票が・・・。これにはびっくりしましたが、一番びっくりしたのはT先生でしょう。

 

 私の名前を読み上げる前、数秒の間があり、何度も見返していましたよ。

 

 先生は目的を達したのでしょう。好かれている女子の発表はしましたが、嫌われている女子の発表はしませんでした。もしかしたら、僅かでも良心が残っていたのかも知れません。

 

 しかし、こんな事して何が面白いのか、「あいつがこいつを、こいつがあいつを」と想像しながらニヤニヤするつもりなんでしょうか。「新婚さんなのに、欲求不満なのかよ」と軽蔑しましたね。

 

 この後、女子から私のせいにさせられる事は無くなりました。せめてもの罪滅ぼしだったのかも知れません。多くの女子は、仕方なく私の名前を書いたのでしょう。先生に嫌われたくないですからね。

 

 それに反して、この頃から1人の女子が先生に小言を言われる様になりました。後で解ったのですが、彼女が私に1票を投じたのです。誰だと思いますか(解る訳ないやろ)。前記事を見れば解りますよ。

 

 答えは次回に(まだ続けるのかよ・・・)。次回、私が取った復讐の結末は如何に・・・。

 

(つづく)


先生への復讐(8年目の決着)

先生への復讐

(「好きな子、嫌いな子」からの続き)

 

 私に1票投じた子が誰か解りましたか。そうです。私の先割スプーンが刺さったパンの持ち主の女の子です。如何してかは謎のままですが(彼女は別の中学に行きましたから)。

 

 中学になり、別の女の子に、「あの子○○君のせいでT先生に嫌われたのよ、好きな子に○○君の名前書いたから」って言われても。

 

 もし、彼女に会う機会があれば、申し訳ないと言う気持ちと、感謝の気持ち伝えたいと想います。先ず逢う事は無いでしょうけどね。それに今頃言われても困りますよね。40年前の事ですから。

 

 自分の事を良く想ってくれた子が1人でもいたと言う事が、私の荒んだ心を癒し、中学に成ったら嫌われない様にしようと、自分の欠点を分析して生活態度を改めるきっかけになったと思います。

 

 T先生にも感謝しています。私にも先生をイラつかせる態度があったのでしょう。それを考えさせられたのですからね。

 

 T先生の初めての教え子が私の姉です。姉の家庭訪問の時、T先生が「あの子はもう大人ですよ、もっと子供らしさが欲しいですね」と言っていたそうです。子供らしい児童が好きだったのでしょう。

 

 私は先生の気持ちを考え、甘んじて制裁を受け入れてのたのですが、「ごめんなさい、もう許して下さい」と普通の子供みたいに泣いて許しを請えば良かったのかも知れません。

 

 私の態度は先生を愚弄し、反抗的と受け取られたのでしょう。日本を美化する考えに見られる様に、かなり偏った考えの持ち主だったのだと思います。新米で、視野が狭かったんでしょうね。

 

 また、藤井先生と言う公私混同をしない大先輩の元で、窮屈だったのかも知れません。そのタガが外れると、付け届けの嵐だったでしょう。勘違いしたんですね。まだ若かったのですね。

 

 お気に入りの児童の家はお金持か、PTA役員でしたので、ちやほやされて、有頂天になったんでしょうね。研鑽を積まれて私の様な犠牲者が他にいなければ良いのですが・・・。

 

 それから約8年の月日が流れました。

 

 その日は成人式です。私はT先生の事など忘れていたのですが、T先生が桜の木の下に立ち、こちらを伺っています。「嫌な奴がいる」と思うと同時に、昔の嫌な思い出が走馬燈の様に蘇って来ます。

 

 その当時のお気に入りの子達に「先生に挨拶に行かないの」と聞くと、「私あの先生嫌いだもん、行きたくないよね」、「私も」、「私も」。誰も先生に声を掛け様としません。

 

 T先生にとって私達は初めての卒業生です。その教え子から無視されるのですから、「ざまぁ〜みろ、アンタ結局みんなから嫌われてたんだよ、解ったかボケ」と心で思った白楽雲青年でした。

 

 しかし、急に寂しそうに佇むT先生が憐れになり、「じぁ〜、僕行って来るわ・・・」、「○○君、酷い目に合ってたじゃない」、「それでも、お祝いに来てくれたんだし、成人としての礼儀だしね」。

 

 私は意を決してT先生に歩み寄り、「御無沙汰してました、今日はありがとうございます」、「誰だったかな」、「○○です、あの時は御迷惑ばかりかけて本当に申し訳ありませんでした」。

 

 「あ〜、○○君か、立派になったね、何処で働いてるの」、「今、秋田大学に通っています、帰省して実家に戻って来たところです」。

 

 先生眼を真ん丸にして、「そうか、頑張ったんだね、御両親も喜んでるでしょう」、「先生の御蔭です、先生も元気そうで何よりです」、「みんな立派になったなぁ」。

 

 「みんな話に夢中で先生に気付いてないみたいです」と後ろを振り返ると先程の女の子達が近づいて来ます。「先生〜、××で〜す、お元気でしたぁ〜(心にもない事を)」、「△△で〜す」、・・・。

 

 私は先生に軽く会釈をしてその場を離れました。これっきりT先生に遭う事はありませんでした。遭いたいとも思いませんでしたけどね。

 

 これが私の復讐です。お気に入り達から嫌われ、1人寂しく佇む憐れな先生が、眼の敵にしていた私に助けられたのです。先生にとっては屈辱でしょう(本人気付いてないでしょうけどね)。

 

 私はその優越感で全ての恨みを消しました。殴れば暴行罪、怒鳴り散らしても見苦しいだけです。この後の中学校の同窓会で、女の子達に褒められまくった白楽雲青年でした。

 

 もしかしたら私が一番の悪党なのかも知れませんね(今頃解ったのかボケ)。

 

 これにて本編は終了ですが、次回、番外編があります。もしよろしければそちらも御覧いただけると幸いに存じます。タイトル予告 : 「松原先生の左手の秘密(番外編)」。


松原先生の左手の秘密(番外編)

松原先生

 長々と詰らない経験談を展開して申し訳ありませんでした。どうしても申し上げておきたい先生が居られますので、もう少しだけ御勘弁を・・・。 

 

 小学校6年生で、この世の地獄を経験した私ですが、地獄に仏とはよく言ったものです。私に好意的な先生もいたのです。

 

 その先生はその年転任して来たばかりの初老の先生で、理科を専門に教えてくれていました。お名前は差し控えますが、名字だけ公表します。松原先生と仰る方です。

 

 暴力塾に通う為に野球部を休部した私は、毎日詰らない日々を送っていたのですが、たまたま見た通信高校講座の化学の実験に心奪われました。

 

 しかし放送は週1回です。仕方なく他の教科も見る様になりました。もちろん理科系の教科が主です(地学、生物、物理)。内容を全て理解出来た訳ではありませんが、興味をそそられたのです。

 

 すっかり科学の虜となった私は、5年の教科書と姉の6年と中1の教科書を読み漁りました。ですから6年の理科は既に勉強済みだったのです。

 

 松原先生の授業は難しいと他の子には不評でしたが、私には丁度良かったのです。この時間だけが心休まるオアシスの様でした。

 

 松原先生は、失礼ですがヨレヨレの背広を着て、左手は何時もポケットに突っ込んでいます。それで色々な心無い噂が立っていたのですが・・・。

 

 先生が、「これ解る人」、「・・・」、誰も手を挙げません。順番に指名されても答えられませんが、私だけが答えられたのです。そんな事を繰り返すうち、私にしか質問しなくなりました。

 

 ある日、「○○君これ解るか」、「○×△です」、「その通り、みんな解ったか」。私の後ろでT先生のお気に入りの××さんが、「ちょっと理科が出来ると思って偉そうに・・・」と言っているのが聞こえます。

 

 その後は質問されても、「解りません」と答えましたよ。先生怪訝な顔してましたが、悟った様で、質問しなくなりましたね。私はホッとしました。

 

 修学旅行の作文を書けと言われ、たまたま国語で紀行文を勉強したばかりだったので、紀行文を書いてみたいと思い、行く先々で時間の記録を取っていた時の事です。

 

 時計の携行禁止でしたので、専らバスの時計です。たまたま外で時間が知りたかった時、ベンチで松原先生がグテっと座っていました。

 

 「先生」、「何だ」、「大丈夫ですか」、「ちょっと疲れてな」、「修学旅行は始まったばかりですよ」、「昨日飲み過ぎたみたいだ」、「ところで時間教えて下さい」、「ああ、○時×△分だ」。

 

 私が時間をメモすると、「何してんだ」、「修学旅行の作文に使うんです」、「そうか」と言うなり、またグテっと動かなくなってしまいました。やる気が有るのか無いのか、不思議な先生です。

 

 作文を無事提出した数日後、T先生のお気に入り5人の作文が選ばれ、市に提出されました。「賞が貰えるかも知れないから期待してなさい、ところで、○○、お前の作文は最低だ」。

 

 別に賞を貰うつもりもないし、文才なんて持ち合わせていない事は承知でしたから、何とも思いませんでしたよ。結局5人の作文も落選でしたけどね。

 

 ある日の理科実験で、細胞を顕微鏡で見てスケッチを描く課題をしていると、「お、上手いな、ちょっと良いか」と、私のスケッチを取り上げ、「みんな、これを見て観ろ、スケッチはこう描くんだ」。

 

 「スケッチもそうだが、科学では記録を取るのが基本だぞ、科学に携わる人もいるかも知れないから忘れるな」と言ってスケッチを返してくれました。

 

 私は皆の注目の的です。更に、「修学旅行で時間の記録を取ってた人がいます、その子の作文は選ばれなかったけど素晴らしい出来だった、選ばれてたら賞を取ってたろうに」。

 

 「残念だったな○○君」って言われ、恥ずかしいやら、嬉しいやら。「でも、T先生が最低だって言ってたよね・・・」と、××さん。私は作文を褒められた事が無いので、正直嬉しかったですね。

 

 実験が終わると、「○○君、後片付け手伝ってくれ」と言われ、みんなが出て行くと「悪かったな」、「何がですか」、「お前の作文が真っ先に選ばれたんだが、横やりが入って落とされたんだ」。

 

 「T先生は最低だって言ってましたよ」、「横やり入れたのがT先生だ、子供らしさが無いってな、6年生にもなって子供らしさもないだろ、でも先生来たばかりだしな力足らずですまん」。

 

 「成績悪いから賞貰うつもりないし、どうでも良いですよ」、「でも理科は得意だろ」、「理科は好きだけど5取った事ないし、得意って程でもないです」。

 

 「おい、如何言う事だ」、「何がですか」、「私は君に5を付けたぞ」、「でも4でしたよ」、「Tの野郎改竄しやがったな、解った、先生に任せとけ」って何するの。変な事しないでね・・・。

 

 この後、二学期と三学期の理科の成績が5になったのですが、一学期も5に訂正されていました。また、T先生が私に絡んでくる事も無くなったのです。先生は一体何をしたのでしょうか・・・。

 

 卒業式の後、引っ越して、隣の中学に行く事になったY君(好きな子ランキング1位、「好きな子、嫌いな子」参照)と遊べるのもこの日だけと言う事で、仲良しみんなで遊んでいた時です。

 

 体育倉庫の鍵が開いていたので、ドッチボールとバットを持ち出し、野球の様な事をしていました。林間学級(林に机と椅子が置いてある)の陰ならば職員室からは見えませんからね。

 

 私達は時間を忘れて遊んでいました。すると、林間学級から松原先生が左手をポケットに突っ込みながら、ひょこりと現れたのです。

 

 私達は「怒られる」と思ったのです。しかし先生は笑いながら、「おい、先生にもやらせろ」と言ってバットを持って参加。

 

 やはり左手はポケットに突っ込み、右手だけで10球ほど大飛球を飛ばして、「いい運動になったな、ありがとう、暗くなる前に帰れよ」と言って職員室の方へ歩いて行きました。

 

 私が「先生、ありがとうございました」と言うと、振り返りもせずに左手をポケットに突っ込んだまま右手を挙げて、手を2・3回振っただけで去って行きました。「カッコイイ」と思いましたよ。

 

 しかし、左手にはどんな秘密があるのだろう。鬼の手の持ち主か(地獄先生ぬ〜ぺ〜でもあるまいし)。でもあながち無いとも言えんよなぁ〜。だって、私を地獄から救い上げた手ですからね。

 

 これが松原先生と逢った最後となってしまいました。御存命ならばかなりの御高齢の筈です。藤井先生と共に、私の小学校生活で、人間扱いしてくれた忘れ難い数少ない大恩師です。

 

 

 

 藤井先生・松原先生の御顔は今でも鮮明に覚えています(何故かT先生の顔も)。この3人の先生を思い出すとスターウォーズを連想します。

 

 藤井先生(オビ=ワン・ケノービ)と伴に野球部を指導していた頃のT先生(アナキン・スカイウォーカー)は、藤井先生が去った後、暗黒面に身を置き「ダース・ベイダー」と成ったのです。

 

 悪事の数々を遣り尽したものの、松原先生(ヨーダ)に邪魔をされるのです。と言う事は、私は「ルーク・スカイウォーカー?」(もういい加減にしろよ)。

 

 それでは皆さん、終わりだヨーダ(やかましいー、さっさと終われよ)。


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