王朝と風水師の微妙な関係!!

王朝と風水師

王朝と風水師

 

古代風水を操るのは優れたリーダーの必須条件だと申し上げましたが、世襲王朝になると王が必ずしも風水を操る必要がなくなります。

 

 風水専門の官職が設けられ、所謂風水師が登場するのです。

 

 呂尚(太公望)とは何者でしょう。「六韜」と言う兵法書の著者とされています(実際は後代の書)。太公望と言うのは、姫昌(文王)の祖父の太公(古公亶父)が望んでいた人物と言う意味です。

 

 呂尚は初めは殷王朝の官吏であったと言われており、王朝と風水師の関わりが歴史に登場する最初の例と言えます。

 

 風水師は各地の地形・地理・気象・風土などに精通し、当然龍脈にも詳しかったのです。王朝の都の選定も風水師の重要な役割でしたが、表に出てくる風水師は多くはありません。

 

 呂尚の流れを汲む風水師としては、斉の桓公を覇者に押し上げた管仲、高祖劉邦(漢帝国の祖)の軍師であった張良が挙げられます。

 

 三国時代に劉備の軍師で蜀の宰相となった諸葛亮(孔明)も風水師であったと言われています。

 

 姫昌(文王)と呂尚の主従関係は信頼の基に成り立っていましたが、姫発(武王)は猜疑心が強く、伴に永く仕える主君ではないと悟った呂尚は、周の都を周の故地に近い鎬京(現西安)に定め、自ら東方の龍穴の地に封じさせるべく画策するなど、したたかな風水師であったと言えます。

 

 武王の猜疑心は非常に強かった様で、弟の周公旦を呂尚の封地の隣である魯に封じ、呂尚の監視をさせたと言われていますが、弟も信用できず遠ざけたとも言われる程です。

 

 張良は、高祖劉邦の絶大の信頼を得て、漢帝国の最大功労者となったにもかかわらず、帝国の都を長安(現西安)にする様に進言し、自らは小さな領地を所望し、さっさと隠棲してしまいます。

 

 皇帝となった後の劉邦は猜疑心に苛まれ粛清を始めます。未来を見据える能力もあったのでしょう。そうでなければ劉邦の様な得体の知れない男に付き従わなかったでしょう。

 

 お気付きだと思いますが、何故、呂尚や張良は西安を都とする様に仕向けたのでしょう。張良曰く「洛陽は周囲が開け攻められ易く守り難い、長安は天険に囲まれ防衛が容易」と言う事です。

 

 確かに周りに気を配らなければならない洛陽より西安の方が地勢的に良いと言えます。一方、君臣の側からは主君には長安に閉じ籠り、大人しくしていてもらった方が都合が良いとも言えます。

 

 そして、異民族王朝にしてみると漢民族は信用成りませんので、絶えず監視の目を向けなければなりません。洛陽では四面楚歌、西安では盲目状態になってしまうと言えます。

 

 なんせ漢民族の方が圧倒的に多いのです。そこで目を付けたのが北京と言う事になります。あまり深入りする事無く南方に目を光らせれば良い場所と言う事です。君臣からすると息が詰まる場所と言えるかもしれません。

 

 王朝と風水師の関係は微妙な関係であったとも言えます。

 

 

(「次へ」)

 

トップページ

 


関連ページ

龍脈と王朝
中国の王朝が都とした場所は例外無く龍脈の近くであり、いわゆる龍穴と呼ばれる場所です。
諸葛亮(孔明)
名将・名宰相として誉れ高き諸葛亮(孔明)。臥龍のまま死した古代風水最後の風水師。

 
トップページ サイトマップ 風水の真実 古代風水裏話 特集 商品情報 プロフィール